元号とは…?元号と年号は違うもの?
新元号である『令和(れいわ)』が決定しましたが、
元号とはいったい何なのでしょうか…?
現在の日本では元号(げんごう)、年号(ねんごう)も同じように、
年につける称号〔呼び名〕という意味として使われているようです。
※一般的に多く使用されるのは元号。
けれども、さかのぼること江戸時代までは年号という言葉を主に使用していたようで、
明治時代以降から元号という言葉が徐々に使われるようになってきたそうです。
というのも、奈良時代と平安時代は、
天皇(朝廷)が政治に対して実権を握っていたのですが、
明治時代に大政奉還〔江戸幕府が天皇(朝廷)に政治の権限を返上〕するまでの
鎌倉時代〔鎌倉幕府〕、室町時代〔室町幕府〕、江戸時代〔江戸幕府〕
は武家(武士)が政治に大きな力をもっていました。
元号(年号)に対しても天皇の即位だけとは限らず、
世の中の出来事だったり、げんを担いだり、天災の時などなど…
様々なタイミングで変わっていたそうです。
それが明治時代に入り、明治維新〔天皇を中心とする国家を形成するに伴う一連の改革〕
による一世一元の制(いっせいいちげんのせい)〔天皇や国王などの君主1代に対して、
1つの元号(元年)〕が浸透していくこととなり、元号というという言葉が使われる
ようになってきます。
しかし戦後、敗戦により※旧憲法から日本国憲法への移行と共に
元号は法的根拠をもたない慣習上のものにすぎなくなってしまいます。
※主権者が天皇(旧憲法)→ 国民(日本国憲法)に代わる
そこで昭和54年(1979年)に元号法という法律が制定されることとなり、
元号は政令〔内閣の発する命令〕で定め、皇位の継承があった場合に限り
改元できるといった法的根拠のあるものとなりました。
今では考えられてない、昔の変わった元号
そのため、現在では考えられませんが、
日本で最初の元号は、飛鳥時代の大化(たいか)【西暦645年~650年】
で、第36代天皇の孝徳天皇(こうとくてんのう)なのですが、
2番目の元号の白雉(はくち、びゃくち、しらきぎす)【西暦650年~654年】でも
同じく孝徳天皇と、2つの元号(年号)に渡って同じ天皇でした。
そして更に、
3番目の元号の朱鳥(しゅちょう、すちょう、あかみとり)【西暦686年】までの
30年以上のあいだ元号がなかったといわれています…
飛鳥時代の年号を見てもわかるように、
大化(たいか)645-650 → 白雉(はくち)650-654 →
朱鳥(しゅちょう)686 → 大宝(たいほう)701-704 →
慶雲(けいうん)704-708 → 和銅(わどう)708-715 →
大化から大宝に至るまでには、
元号(年号)が使われていない期間も結構あるようです。
成人の日はいつからあるの?奈良時代にも成人の儀式というものがあった…
元号(年号)の始まりとは…
元号(年号)はもともと中国で使われていたのですが、
中国の唐〔中国の王朝〕の文化を、遣唐使(けんとうし)〔国外の情勢を知る為、
国の代表として唐に派遣された人〕によって日本に持ち込んだとされています。
(遣唐使船の復原)
そして日本独自のルールにより作られたものが、
今ある元号(年号)となります。
そして日本で最初の元号(年号)、飛鳥時代の『大化(たいか)』(645~650年)
から『令和』まで248(※232)の元号(年号)があります。
※南北朝時代の日本は、南朝と北朝とに天皇家が分かれていた為、重なる時期があります。現在、正統と言われている南朝のみで計算した場合は232の元号(年号)となります。
どうして飛鳥時代から元号が始まったの…?
聖徳太子の死後、天皇以上に豪族〔その地方に勢力をもつ一族〕が
大きな権力をもつこととなります。
そこで立ち上がった、
中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)〔後の天智(てんじ)天皇〕と
中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって、
有力豪族であった蘇我氏〔蘇我(そが)の氏をつ血縁集団〕の
蘇我入鹿(そがのいるか)倒し、
入鹿の父の蘇我蝦夷(そがのえみし)も自害してしまいます。
このことを〔乙巳の変(いっしのへん)〕といわれているのですが、
その後、孝徳天皇(こうとくてんのう)の即位とともに
制定された元号(年号)が大化(たいか)となります。
ここから天皇を中心とする政治を目指し改革していくこととなります。
天皇中心の政治が整うのに約50年の期間を要し、
大宝(701年)の大宝律令(たいほうりつりょう)〔天皇を中心とした法律。
律が刑法、令が行政、民放など〕により、ようやく公式文書にも
元号(年号)が使用されるようになったそうです。
そして、この大宝律令までの改革を
『大化の改新(たいかのかいしん)』といいます。
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