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「日本」という国名はいつ誕生した?名前の由来と歴史をかんたんに解説!

歴史・文化

「日本」という国名はいつ誕生したの…?

 


生まれてから日本にいると『日本』という言葉があって、当たり前のように感じてしまうわけですが、勿論、『日本』にもはじまりがあったわけです。

 

現在でいう、ユーラシア大陸の東側が分裂して日本列島が出来上がり、はっきりとは解明されていないようなのですが、3~4万年頃前ホモ・サピエンス(新人・現生人類)がなんらかの方法で日本列島までやってきたのではないかと考えられています。

しかし、さすがに、その頃の人たちは『日本』とは言ってなかったはずです…

 

ホモ・サピエンスとは?…ラテン語の「賢い人」の意味。現在の人類の直接の祖先と考えられています。

 



実際に『日本』という言葉が使われたのはいつの時代からだったのでしょうか…?

 

それでは、一緒に見ていきましょう!

 

日本と呼ばれるまでの歴史

〔卑弥呼(ヒミコ)〕

 

日本の歴史上にに卑弥呼〔3世紀前半(240年代頃)〕という人物がいたとされているのですが、このことは中国の歴史書である『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に記されています。

 

魏志倭人伝〔正式名称:魏書東夷伝倭人条(ぎしょとういでんわじんのじょう)〕とは?

中国の歴史書である『三国志(さんごくし)』〔3世紀末〕のなかの一部で、日本列島の倭人(日本人)の習俗、地理、産物、政治、外交などについて約2,000字程記されている。

 


この『魏志倭人伝』のタイトルにもありますが、書物のなかでは、当時の日本と思われる国のことを『倭(わ)』というふうに記され、その倭には邪馬台国(やまたいこく)という都が存在し、女王卑弥呼が治め、約30の国を従えていたことが記述されています。

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『倭(わ)』という言葉の意味

 中国の正史〔国の公式な歴史書〕ではじめて『倭』という言葉が入ってきたのは、『後漢書(ごかんじょ)』という、中国の古代王朝である後漢のことが記された書物なんだそうですが、『倭』というのは、当時の大国であった中国にとって、小国という意味で使われていたと考えられています。

 

どうして『倭』から『日本』に変わったのか…?

 

〔聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸王 うまやとおう〕

 

『倭』と呼ばれていた当時の日本は、だんだんと大きな国へと成長していくのですが、そのようになると、やはり『倭』(小さい国)という表現は不満に思えてきたのか…

 


それまでは、自国のことを中国と同じように『倭』というように表現していたが、聖徳太子(厩戸王)〔飛鳥時代574年~622年〕が、中国に送った国書



「日出る処の天子、書を、日没する処の天子に致す。」

 

というような表現をしたそうです。

国書を届けた人は、遣隋使である小野妹子(おののいもこ)

遣隋使(けんずいし)とは?…中国の文化〔学問、制度、技術など〕を学ぶために派遣される人。

 

 

それは中国の東側にある国ということで、「日(太陽)が出てくる本(もと)にある国」ということを表しており、そして、中国では皇帝を意味する「天子」という言葉を、自国の天皇〔第33代 推古天皇(すいこてんのう)〕に当てはめた文書でありました。

 

〔推古天皇

 

 

これは、中国と対等である国ということをアピールをしたかったのではないかと考えられています。

 


このことに対して、当時の中国の王朝〔帝王自ら政治をとる所〕である(ずい)の第2代皇帝 煬帝(ようだい)が

 

西側に存在する隋は「日没する処の天子」=〔日が落ちる側〕と解釈して激怒したとか、しなかったとか、学者のなかでいろいろな見解あるようなのですが…

 


その時期を皮切りに少しずつ変化していったようで、



「日(太陽)が出てくる本(もと)にある国」『日の本(ひのもと)』→『日本』のようになっていったのではなかという説が、現在では有力とされています

 


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